日本の行政地名史 のバックアップ差分(No.4)


  • 追加された行はこの色です。
  • 削除された行はこの色です。
*古代 [#sac208b8]
**古代 [#sac208b8]

**大宝律令(701年) [#n3347f6b]
***大宝律令(701年) [#n3347f6b]
701年の大宝律令は、広域にわたって等質性の高い行政区画を制度化し、諸国を五畿七道として編成した。
京に近傍の諸国は五畿内とし、それ以外の諸国は七つの道の下に置いた。
ただし、道の行政的一体性という点では難点があり、軍事的には按察使が導入されている。
**道前・道後 [#c6004a89]
*中世 [#p8d5b718]
*江戸時代 [#af25d708]
*近現代 [#i3731592]
**大区小区制 [#vf9b63fd]
***道前・道後 [#c6004a89]
**中世 [#p8d5b718]
**江戸時代 [#af25d708]
**近現代 [#i3731592]
~新政府では、1868年(慶応4年/明治元年)に天領などに裁判所(という名の行政区画)が置かれ、後に府県に整理された。(府藩県三治制)
1871年(明治4年)に廃藩置県が行われた。この時点では領域的には藩を県に転換しただけのものであり、錯綜した境界線や飛地が多数存在した。
同年末に第一次府県統合と呼ばれる府県の整理が行われ、領域的に連続した75府県となった。
また、同年からは村をまとめて戸籍区が設置され始め、1872年(明治5年)末には大区小区に移行した。大区と小区の行政区名は全て数字であった。

***郡区町村編成法 [#u53d5df5]
~1878年(明治11年)7月22日、郡区市町村編成法が施行され、同年から1878年(明治12年)にかけて順次実施された。これにより、小さな郡は統合され、また大きな郡は分割され、現代の郡名の基となった。また大区小区制のもとでは行政区ではなくなった藩政村が(合併はあったにせよ)再び行政区画となった。

**郡区町村編制法 [#ge73f12d]
*参考 [#xb14829f]
***明治の大合併 [#wef0a02b]
~1888年(明治21年)には町村の合併が行われた。多くの場合、旧村に大字が設置された。

**参考 [#xb14829f]
[[「道前」「道後」地名の歴史的考察&BR;川岡, 勉|地域創成研究年報:http://jairo.nii.ac.jp/0183/00000886]]